南大隅町 MINAMIOSUMI TOWN
ここから本文です。
更新日:2022年4月15日
本地域は、縄文・弥生時代の遺跡があり、温暖な気候の下で早くから人々の生活が営まれていた様子がうかがえます。
鹿児島県その中でも大隅半島南部は開聞岳や桜島、硫黄島周辺の火山灰が多く推積しており遺跡の時代を知る上で大変参考となります。
平成9年度に発掘調査された大中原遺跡は肝属南部開拓建設事業に伴う発掘調査として行われました。時代としては縄文時代早期(約8500年前)主に吉田式土器と呼ばれる南九州で見つかる土器が多く出土しています。
この遺跡では集石(しゅうせき)と呼ばれる石をたくさん集めて焼き、その中に肉などを入れた昔の石蒸し料理あとが27ヶ所や石皿(いしざら)と磨石(すりいし)という木の実などをすりつぶしたりする道具、他に木を切るための石斧などが見つかっています。縄文時代とは土器の表面に縄をころがして文様をつけた土器を使っていた時代ですが、南九州では貝殻や木のヘラなどを使って文様をつけたものがたくさんあります。
大中原遺跡の地層の中に約6500年前に喜界カルデラとよばれる火山(現在の硫黄島・三島付近)が爆発した時、火砕流によってなぎ倒され炭化した木が出てきました。この木は分析の結果、カシの木であることが分かりました。この爆発の火砕流は海を超え、大隅半島では鹿屋市、薩摩半島では鹿児島市のあたりまで達しています。現在の私達にはとても想像できないもので、当時この付近の人間を含めた動物は全滅したであろうと考えられています。
その他にもとても珍しいものも発見されています。この遺跡では調査を実施する前から太平洋戦争当時の日本軍のゼロ戦が墜落した話がありました。そして調査を行ったところゼロ戦の20ミリ機関砲がでてきました。旧根占町では戦争の悲惨さを伝える生きた教材として大切にしたいと考えています。
この遺跡は弥生時代中期(約2000年前)の遺跡です。弥生時代は米作りが伝わり始めた時代です。谷添遺跡から2基の竪穴式住居跡が発見されました。竪穴式住居跡は地面をほりこみ、屋根をつけた昔の家のあとです。1基は4×4メートルの正方形で住居の中から石剣状の石器(長さ18.3センチ)が出土しています。
他にも磨製石鏃(やじり)やその製作課程で出る剥片や砥石(といし)などがでてきています。もう一つの住居跡は3.5メートル×4.5メートルの大きさで土器の小さいものが数点でてきています。
土器としては山ノ口式土器と呼ばれるものが中心でかめや壷の土器片も多数出土しています。この遺跡のある場所は標高約235メートルの場所にあり、まわりが見渡せるとても景色の良い高台にあります。これは、外部の敵の侵入に備えた防御的な意味があると考えられています。
お問い合せ
より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください